• 割れた壺

    政治や宗教、主義といったものが発足したとき、人は一線を越えたような感じがする。

    それは、自分の手の届く範囲、目の届く範囲、言葉が届く範囲でのみ責任を負っていた人間が、その自然な限界を超えて「すべてを良くしよう」と思い始めた瞬間だったのかもしれない。

    一見すると崇高な理念に見える。
    実際、そこに命を懸けて関わる人々の姿に、僕は敬意を感じる。

    だがその行為は本質的に、人間にとって手に余ることだったのではないかと思う。
    越えてはならない境界を越えてしまったのではないかと。

    政治とは、誰かを選び、誰かを選ばないという行為を含む。
    制度は、他者の生を抽象化し、管理しようとする。
    宗教や主義は、無数の異なる生き方にひとつの意味や正しさ与えようとする。

    こうした「越境」が連続することで、人の内側にある輪郭や沈黙、孤独までもが、すべて何かのために動員されるようになった。

    それでも無くてはならなかった。必要悪だった。
    それは道徳的な義務ではない。自己に対する冒涜的な背任行為だ。


    公共への責任という言葉がある。
    この「公共」というものがどこまで広がっていくのか。
    もはや誰も歯止めをかけられていないように思う。

    最初は近くの人を気遣うことだったはずが、今では社会、国家、人類、地球といったスケールにまで拡張され、「責任ある人間であれ」と求められる範囲は、すでに誰にも背負いきれるものではなくなっている。

    しかし、沈黙や不参加は無責任として裁かれる。
    本当にそうなのか。そこに本当に責任などあるのか。
    自分の輪郭を超えて責任を負おうとすることは、傲慢ではないだろうか。

    関心を持つことが道徳的に正しく、関心を持たないことが道徳的に劣っているとするのは、一体何の基準だろう。

    それは人ならざるものの基準だ。


    壺はもう割れている。

    僕らはもう、線引きのある世界には戻れないだろう。
    誰かの善意も、声も、制度も、思想も、少なからず僕らの内側に穴を開けてきた。

    僕の壺にも、大小の穴がある。塞ぐことはできない。
    せめて、内側からそれ以上広がらないように、押さえつけるしかない。

    小さな穴には、目をつむるしかないだろう。


    沈黙。
    逃避ではなく、最後の境界線。

    これを悪と呼ぶことなど、本来誰にもできないはずだった。

  • 自己は完成している

    自分には何かが足りないと感じるだろうか。
    知能や体力かもしれない。経済力かもしれないし、優しさかもしれない。

    現実的には不可能だが、仮に社会とのつながりを全て完全に断ち切れたとしたら、と考えてみる。

    すると、足りない、欠けていると感じていたあらゆるものが、消えてしまう気がしてくる。
    自分は既に満たされ、完成した存在のように感じられる。

    完成された自己というのは、あくまで空想のものだが、人に足りなさを与え感じさせるのは、自分ではなく他者であることがわかる。

    では、自分は何をすべきだろうと考える。
    すでに自己は完成され、満たされている。つまり、何も欲す必要がない。

    欲すことがないなら、自然と与える側になる。与えようと意識するしないに関わらず、ただ在るだけで与える側になるだろう。

    もっと、という声が聞こえるが、それは自分の声じゃない。

  • 方便

    発端は、「方便とは何か?」という問い。
    表面上は優しさや配慮の顔をしている方便だが、その本質は、時に欺瞞であり、逃避であり、語る側の責任を巧妙にすり抜ける仕組みでもある。

    方便は、今を守るために未来を担保にする。
    “言葉の借金”とも言えるような概念である。
    それによって壊れなかった何かが、後になって静かに崩れていくこともある。

    「方便を正当化する文化には欠陥がある」

    そう結論づけた僕は、真実が何かを壊すのだとしたら、それは壊れるべきものなのだと考えた。
    欺瞞によって延命されることは、救いではなく、自己の放棄だと感じた。

    多くの場合、弱さを誤魔化すために方便が使われる。
    それを「相手のため」と言い換えることで、欺瞞や逃避を正当化している。
    甘美な誘惑に身をゆだねていく。
    その構造は、明らかに毒性を孕んでいる。

    だが、このような厳しい倫理観は、万人に通じるものではない。
    真実に耐えられない人は確かに存在する。
    そして、その崩壊の果てに、自死や精神の崩壊というかたちで“退場”を選ぶ者もいる。

    「その死は悪だろうか?」

    その問いに明確な答えはない。
    死が社会にとって「悪」とされるのは、あくまで社会の存続と秩序のためであり、個人の内的な誠実と尊厳とは必ずしも一致しない。

    構造の視点から見れば、自殺は「劣勢個体の淘汰」として処理されてしまう。
    本人の意識と関係なく、社会はそれを“貢献”として静かに取り込んでいる。
    どれほど冷たく、残酷な現実だろう。

    「自己を破壊するという選択すら、予定されているものなのか?」

    この問いは、自由意志の根底を揺るがしている。
    もし破壊すら脚本の一部なら、自由はどこにあるのだろう。

    だが、その問い自体が予定されえない“意識の跳躍”であり、そこにかすかな自由の兆しがあると信じたい自分もいる。

    自己の追求の果てには、無意味、無価値、無目的という“無”の空白が待っている。
    それでも、「ただ在る」ということの中に、わずかな希望を見出さずにはいられない。

    「自己の追求の果てに、社会を始めようとしているのだろうか?」

    ふと浮かぶ問い。
    道徳が生まれ、規範ができ、再び構造が立ち上がる。
    堂々巡りのように見えた。

    だが、以前の場所に戻ったようでいて、実は違う高さ、違う深度に到達しているだろう。螺旋のように。

    意味を求めて、意味を失い、言葉を信じて、言葉を疑い、問い続ける旅だ。
    逸脱や否定の先にあるのは、より深い関係と理解なのかもしれない。

  • 愛の行方

    不完全で未熟なものを愛する方法は何だろう。

    親から見た子はとても未熟で、不完全な存在だ。そして最大の愛情の対象になる。

    親が子に抱く愛情こそ、不完全さを愛する究極の例だろう。

    未熟であるということは、大きな可能性である。不完全であるということは、完成されていない美しさである。そこには刹那的な尊さと輝きがある。

    僕は組織を嫌悪している。なぜ嫌いなのか考えると、それは組織が持つ不完全さをもって説明できると思う。

    さも完全であるかのように振る舞い、不完全さはただ僕の視点だけのものだと言い、そしてそのまま硬直したようにも見える組織というものが、僕はとても嫌いだ。

    話さず、笑わず、成長もしない子供を見ているようなもの。

    しかし、どんなに失望しようと、それを愛すことこそが僕のすべきことなのかもしれないという考えは常に浮かんでくる。カントの言う道徳がそこにあるように思える。

    そうすべきかもしれない。非常に高い次元での命令のようなものが、薄っすらと聞こえている。

    愛は見返りを求めないという。壁打ちのようであっても、構わないのだと。

    この社会に生きる人々にとって、最も困難な使命のひとつだ。誰も自らが望んだわけじゃなかっただろう。それでも愛せと言うのだろうか。今の僕には、とてもできそうにない事に思う。

  • 社会導入性認知障害

    はじめに

    「幸福とは何か」という問いがあるとき、その前提にはすでに“欠如”という構造がある。

    多くの人は、今あるこの瞬間を肯定できず、いつも「なるべき何か」に成ろうとする。
    この問いの根底にあるものは、社会由来による自己に生じた認知の歪みのである。

    この歪みを仮に「社会導入性認知障害」と呼ぶ。
    これは病理としてではなく、存在論的な構造の変化として理解されるべきものである。

    社会による認知の侵蝕

    人間は社会的存在である。この命題に異を唱える余地はない。人は他者と関係し、制度の中で生きる。
    しかし、まさにこの社会性の内面化が、自己の根源的自由とその認知を歪ませる契機となる。

    社会は、個に対して価値を定義する。「成功」「貢献」「共感」「承認」といった概念は、幸福の条件として示され、内面化されることによって、無条件の存在肯定は次第に忘却されていく。

    社会導入性認知障害とは、この社会的価値の内在化により、自己の存在認知を転覆される状態である。それは病気ではなく、支配である。

    根源的自由

    社会における自由は、選択肢の多さや発言の権利として語られる。だが、それは制度の中で許された自由に過ぎない。真の自由とは、他者や制度のまなざしを必要とせず、それでもなお自己が自己を肯定できる地点に立つことにある。

    この自由は、「在ることの自己承認」としてのみ成立し、成果や証明を必要としない。むしろそれらが存在しない孤独の中でこそ純粋に達成されうる。

    「私はここに在る」、これは根源的自由のあらわれである。

    孤独という媒介

    根源的自由は、孤独であることが不可欠である。他者によって肯定される自己は、常に外部に依存している。よって、他者不在の空間においてのみ、自己由来の肯定が純化される。

    孤独とは、寂しさや他者との関係の断絶ではなく、関係から解放された存在の自律状態である。このとき、孤独は耐えるべきものではなく、自由の条件であり、認知の回復地点となる。

    社会の構造と幸福の誤配

    近代社会は「公共の福祉」を掲げながら、その実、個の存在を“社会的有用性”という価値基準に押し込めることによって統治している。

    陰謀ではない。あるのは制度であり、文化であり、慣習である。その無意識性が、構造としての暴力性を強固なものにしている。

    幸福は、条件付きのものとして制度的に定義され、それを欲することが“自発的”であるかのように思わされている。これはまさに認知障害である。この欺瞞を暴くには、幸福とは本来「得る」ものではなく、「思い出す」ものだという逆説が必要となる。

    個人の在り方

    人間としての社会性を維持することは必要である。完全な脱社会や逃避が必要なのではない。

    だが意識は、社会から分離することができる。生命体として社会性を完全に失うことは困難だが、意識には、それを演技として俯瞰する場所に立つ自由がある。

    これは意識の亡命、あるいは意識という独立国家の宣言である。

    おわりに

    「社会導入性認知障害」とは、病的な個人の問題ではない。それは、制度的・文化的構造が後天的に与える、存在認知の支配装置である。この障害は、孤独と自由という根源的条件を通じて、克服される。

  • 身体のユーザー権限

    眠りから覚めると世界が始まる。当たり前のことだが、眠っている間も自分は存在している。

    カメラをセットして眠りにつき、いびきをかいたり寝返りを打つ自分を撮影する。覚醒していない自分を見ることができる。カメラ映像の中の彼は無意識の状態であるから、彼の中には、こうして今キーボードを叩いている自分としての意識は存在していない。

    それでも彼は呼吸をし、寝返りを打つ。無意識下であっても、酸素を取り込み、ATPを作り、脈を打ち、エネルギーを消費している。

    僕は今覚醒しているが、意志によってそれらの活動を止めることはできない。僕にできるのは、体を動かしたり、ものを考えたりすることくらいで、この身体の中で行われている全ての生理現象に対して介入することはできない。これらは禁止されている。

    僕の意識には、身体内部の全ての機構に対して、停止や再起動、別のものに書き換えたりといった力はない。

    コンピュータには権限の管理という仕組みがある。普段使用するスマートフォンも同じ。私たちが通常使用しているのはユーザー権限であり、スマートフォン内部の全てのファイルやリソースにアクセスすることは禁止されている。

    全てにアクセスできる権限のことを root権限 と言う。Androidであれば「root化」、iOSであれば「脱獄」と呼ばれる操作は、このroot権限を使えるようにすることだ。

    そもそも、なぜ全ての権限が与えられず制限されているのかと言えば、セキュリティや安定性を担保するためである。root権限とは全てを操作できる鍵であり、根底から何もかもを破壊する自由さえ手にしているからだ。

    スマートフォンを意図せず破壊してしまったり、悪意の第三者にコントロールを奪われたりしないよう、通常は一般ユーザーとして使用している。

    同様に、「僕」という意識も、この身体というデバイスに対してのroot権限を持っていないことになる。その理由としては、前述のスマートフォンの例と全く同じ事が言えるだろう。セキュリティのためであり安定性のためである。

    自殺は自ら生命活動を停止させる行為ではあるが、あくまで外部から刺激を与えて、関節的にそれを停止させているに過ぎず、身体そのものをコントロールしているわけではない。

    眠りに就く時や立ち眩みした時、痛みを感じた時など何でも良いが、意識とは無関係な身体の働きを認識した時、意識にとって、この身体が 借り物 でしかないという感覚を覚える。もし借り物なのだとしたら、意識を別のところに移すというSFも成立するだろうと思う。

    ただ、アクセスが禁止されていることは、決して 不自由 ではない。むしろ、だからこそ自由であるという見方ができる。自らの生命活動にとって不可欠なコアの部分を意図せず壊してしまうことがないということは、何を考え行動するにあたっても、安心して良いということだ。

    また、生理現象など必要最低限の生命活動は、管理ユーザーがやってくれているのだから、僕の意識はそこにリソースを割く必要がない。

    実に美しく作られていて、とても自由だ。

  • 水商売否定論

    虚偽の関係性の構造

    水商売の根幹には「擬似的な恋愛感情」や「関心の演技」が商品として組み込まれており、客は好かれていると錯覚(確信的かどうかは問題とならない)し、従業者は好いているふりをすることで、互いに商業的な価値を認めている。
    これは人間関係という非常に繊細で深い領域を、虚構によって成立させ、踏みにじる構造であり、誠実な関係性を重視する者にとって、最も本質的な倫理的矛盾となる。これが一つの文化であるなら、そのような文化であると理解している場合を除いて、基本的に万人にとって倫理的矛盾を生じさせるものである。

    欲望の表層的な処理

    水商売は人間の「承認欲求」や「孤独感」を一時的に緩和するが、それは根本的な問題に向き合わず、表層を撫でて終わる構造である。
    しかもそれに金銭が絡むことで、「欲望は金で処理されるものだ」という通念が温存され、人間の感情や深層的なつながりの価値を形骸化させている。

    人間の弱さを消費する仕組み

    客の欲望や孤独、従業者の経済的困窮や過去のトラウマなど、人間の弱さを支え合うのではなく、商品として循環させている。
    この構造では、救済されるべき人間の”弱さ”が癒されることはなく、むしろ再生産され続ける。
    この構造は支え合いではなく、搾取と依存の共犯関係であり、人間の尊厳を互いに削り合う関係性である。

    労働としての自己否定性

    水商売に従事する人は「演技」や「役割」を装い、自己の感情や価値観を封じている。
    これはある種の「自己の分裂」や「感情の商品化」を日常的に内面化する営みである。自己の整合性と誠実さを重視する視点に立った時、働くという行為そのものが自己否定的であることに強い抵抗を感じる結果になる。

    文化的・社会的麻痺の温存

    この業界の存在は「癒し」「社交」「経済活動」として一見機能しているように見えるが、実際は社会全体の感情劣化、関係性の表層化、倫理の曖昧化を助長している。
    本来であれば、対話や信頼に基づく関係性によって育まれるはずの人間的成熟が、金銭によって代替される。
    これは人間社会の本来の育ち方を鈍らせる装置として機能しており、成長を妨げる社会的温室として批判の対象となるべきものである。

    推し文化の“個人的美徳”から“社会的正義”への転換

    かつて「推し」は、文字通り「個人的に応援したい対象」として存在していた。
    SNSの拡大と消費文化の拡散により、「推すこと」は感情の表現を超えて、行動規範・美徳・仲間意識の証明にまでなりつつある。

    結果として、

    • 「推すのは素敵なことだ」
    • 「推しのために頑張る自分が好きだ」
    • 「推し活が自己肯定感につながる」

    という言説が拡散され、推しに貢ぐことが、善であるかのように捉えられる意識が広がっている。

    水商売における“推し”の巧妙な制度化

    ギャバクラやホストは、もともと「推し」的な構造を内包していた。

    • 特定の嬢・ホストを「指名」する
    • 売上競争の中でナンバーを上げる
    • 「一番にさせてあげたい」という感情を刺激する

    推し文化が融合したことで、従来なら“依存”や“執着”とされていた感情が、社会的に肯定されるようになっている可能性がある。

    つまり現在において、「推しに貢ぐこと」は、もはや“浪費”ではなく、“愛”であり“努力”であり“誇り”になっている。

    搾取の正当化という構造的危険性

    こうした変化により、本来であれば問われるべきはずの「そのお金は誰のためのものか?」「その関係性は対等か?」「その感情は本人の自由意志なのか、誘導されたものか?」といった問いが、応援という名目で覆われ認識しにくくなっていると思われる。

    そして水商売側は、これを巧妙に制度化している。

    • 私物・アフター・シャンパンコールなどの”特典”による報酬設計
    • SNSでの戦略化
    • 「推してくれてありがとう」という感謝の擬似的情愛

    この構造は、実質的には搾取のゲーミフィケーションであり、本人の自尊感情を消費する形で「関係性」が成立している。

    消費が感情を先導する時代における主体性の消失

    本来は感情が先にあり、そこに金銭が追従する。
    今は逆で、金銭や行動が「推し活」として先に存在し、「感情」が追従する。
    つまり、感情が行為に従属し、主体性が形骸化している。

    水商売の構造は、この流れを象徴的に体現している。
    それはもはや恋愛の擬似ではなく、主体性の擬似である。

    総括

    水商売の必要性や需要は理解できる。ただ、あまりにも多くの嘘、依存、ごまかしによって成立しているこの仕組みは、共感できるものではない。

    推し文化との融合は、消費の自由の皮をかぶった、関係性の倫理的退廃であり、忌むべき存在とすら思える。

    人間関係は、もっとまっすぐで透明であってほしい。水商売のように欲望を扱うならこそ、より一層誠実であってほしい。

  • 様式醜

    ”様式美”をWeblio辞書で調べる。

    様式の美しさを重んじるあり方。建築などにおける特定の流派のスタイル。

    では、”様式”とは。コトバンクには以下のようにある。

     ある範囲の事物・事柄に共通している一定の型・方法。スタイル。「古い様式の家具」「書類の様式」

     ある時代・流派の芸術作品を特徴づける表現形式。「飛鳥あすか様式を模倣する」「様式美」

     習慣・約束などで定められたやり方。「生活様式」「行動様式」

    様式の美しさとは、芸術や建築などの物に限らず、振る舞いにも言えることがわかる。”お約束”みたいなことだ。

    なぜそこに美しさを感じるのだろう。

    これは、研ぎ澄まされた日本刀やピタゴラスイッチのギミックを見たときに感じるものと同じように思う。

    ある目的を追求するために出来る限り無駄を排した構造は、機能美を持っている。初めからそうであったかのような必然性を感じさせる。過去から現在に向かう途中、その長いプロセスの中で最適なものがひとつ選ばれてここにあるという必然性だ。

    さて”決まりごと”と言えば、国の法もそうだ。

    例えば日本には賭博罪(刑法185条・186条)がある。

     偶然の勝敗による

     財物または財産上の利益について

     得喪を争うこと

    近年、カジノが合法化された。いくつかの新しい法が作られ、その上でカジノは違法ではなくなった。そもそも競馬や競艇などの国営ギャンブルが存在しているのだから、今更何をという気もする。

    これが示すのは賭博そのものに罪の性質があるのではないということ。国営ギャンブルは国益になり、国益は公共の福祉を実現する。

    また、民間のギャンブルであってもパチンコ店は合法である。三店方式という仕組みが合法性を担保していると考えられている。

     パチンコ店:客に現金ではなく特殊景品を渡す

     景品交換所(古物商):特殊景品を現金で買い取る

     景品卸業者(問屋):景品をパチンコ店に卸す / 回収する

    パチンコ店で直接現金を渡していないから賭博ではないというロジックである。実質賭博であることは明白だが、摘発されないのは業界が警察と密接な関係を持っているからともされる。

    そこにあるのは、”実質”と”建前”の乖離だ。

    (ただ、実は最高裁が正面からこれを合法 / 違法を判断した判例は無いらしい。グレーのまま放置というのが現状の表現として適切かもしれない。)

    日本には、礼節や作法を重んじる文化がある。”型”や”マニュアル”として定めたものに従うことを重要視している。実体が伴わない段階であっても「まず形式を守れ」とする。

    形式を守ることの合理性としては、効率の良さや公平性などが考えられる。型に従うことで、やがて実体が付いてくるという”逆向きの教育”的な考え方もある。

    形式主義の習慣化が形骸化を生む。それが現在に蔓延した”実質”と”建前”の乖離であり、それはすでに実体を伴わない不自然さ・非効率さ・不自由さ・抑圧などの象徴になっている。

    改めて、日本は極めて建前社会である。

    これは、人間の自立性や創造性を信用せず、逸脱を恐れ、全てをマニュアル化しようとする社会。「型を守らせれば正しくなる」という過度な形式主義は、性悪説的な発想に支配されていると考えられる。

    もはや様式美ではなく、様式醜とでも言えるものがそこにある。

  • 再会

    目の前のコップを指で弾くと音が鳴った。

    部屋の中を照らすライトが空のペットボトルに反射している。ペットボトルの向こう側がぼやけている。

    ライトの光があって、僕はそれらを見ている。光が影を作る。椅子、本、時計、全てに影が出来ている。当然のように。

    手を振る。風を感じる。机に触れる。冷たい。

    目に見える秩序と呼吸。

    僕はそれらを見ているようで、暗黙の内に了解していた。こんなにも心を躍らせるものに囲まれて、それを納得していた。見逃していた。

    生まれたときから、ずっとそこにあったもの。理解したことにして、生きやすさを求め続けていた。

    「それはただのコップだよ」

    「それはただの音、ただの光、ただの空気だよ」

    見逃したというより、受け止めきれなかったんだと思う。そして無感動のラベルをどんどん貼っていった。

    それを剥がすのに、特別なことは必要ない。無数の奇跡が目の前にあった。

    「やっと気づいた?」

    「ずっとそこにいたよ」

    世界とつながった気がした。僕がそれに気づいた事に、世界が一斉に応えた気がした。

    理由というより応答として、涙が流れた。

  • 無意識の演出と内的体験

    ‘ボケて (bokete)‘ というサービスは、お題となる画像に対して一言ボケを投稿して楽しむユーザー投稿型サイト / アプリである。

    画像とセリフの組み合わせで笑いをとる形式で、投稿されたボケに対して、ユーザーが星をつけたり、ランキングに反映されたりする仕組みがある。SNSで「秀逸なボケて集」というように拡散されることも多い。

    これをネタとして使った動画を視聴すると、不思議な現象が起こる。動画の中でそのボケを音読されると、秀逸なはずのボケが、急に寒いものに感じることがあるのだ。

    このメカニズムを考えてみる。

    頭の中で読むときは、自分のタイミング・声色・ニュアンスで読んでおり、自分にとって完璧な演出をした上で再生している。これに対して他者が音読する場合は、他人の声とタイミングで再生されることによって、自分の脳内での「面白さの再現」との間にズレが生じる。このズレが滑ってる感や寒さを生んでいると考えられる。

    頭の中で読むとき、そのボケを読むのが初めてであるにも関わらず、なぜ ‘完璧な演出‘ ができるのだろうか。知らないものを面白く読めるはずがない。矛盾しているように思える。

    これは脳が、先読みしているからに他ならない。次を予測し、予測に合わせて感情と演出を同時進行で行っている。そしてその演出は、自分のために最適化されている。それは自分の好みや経験、ツボなどを反映して、無意識のうちに圧倒的なスピードで演出され、再生されている。

    意識的な理解とは、言語処理のことだが、これはあくまで脳の一部の働きであって、非言語処理が占める部分が沢山ある。直観や感情、予測、反射や身体反応などは、自分の意識下の `理解` とは別階層のものだ。

    また、頭の中で読むだけで、脳はちゃんと音としての処理を行っているようだ。実際には音を聞いていなくても、脳はその音を疑似的に再生している。これは音を聞いて処理するよりも、情報処理のスピードが高速である。

    脳は、それほど精密で、無意識のうちにとんでもないことをやってのける。とてつもなくレベルの高い再生装置としての機能を有していることを証明している。

    4K、8K、VRやプロジェクターなど、デバイスの技術発展はめざましく、リアリティや没入感のあるコンテンツが次々登場している。しかしこれらのコンテンツがもたらす完成された体験は、受け手の想像力を超えられるものではないのかもしれない。

    本などの文字情報は、読者の脳が補完し、演出し、完成させるプロセスを経る必要がある。脳はこのプロセスの中で、映像や音だけでなく感情・空気・匂い・時間の流れすら描写することができる。

    外から与えられる体験と自分の中で生成される内的体験は、優劣の問題ではないが、後者の方が圧倒的自由度と深さを持っている。

    文章を書く・読むという行為が素晴らしい創作活動だという事を、改めて思う。