意味の不在

人は対象を評価する際、しばしばその本質から目を逸らす。
歴史、文脈、判例、通説。
それらは評価の代替物として機能し、個別の対象を直接見ることを不要にする。

一度評価されたものは、以後その評価軸と「かつて評価された」という事実によって評価され続ける。
評価は出来事ではなく、制度として保存される。
未来において行われる評価の多くは、判断ではなく追認である。

この構造は、ある自画像を描き続けた画家の評価史に端的に表れている。
彼は生前、ほとんど評価されなかった。
しかしそれは、作品が未熟であったからでも、価値が欠けていたからでもない。

当時の社会は、彼を評価するための軸を持っていなかった。
写実性、市場性、流派との連続性といった既存の評価関数の中で、彼の絵は分類不能なものとして扱われた。

後世において彼が高く評価されるようになったのは、彼自身が変わったからではない。
社会が、彼を位置づけるための物語を獲得したからである。

内面の表出、近代的主体の孤独、表現の切断。
そうした評価軸が成立した瞬間、彼の作品は「評価可能な対象」へと変換された。

ここで起きたのは再評価ではない。
同一の対象が、異なる物語に接続されたにすぎない。

そして一度その評価が確立されると、彼は「評価された画家」として評価され続ける。
後の鑑賞者の多くは、作品を見る以前に、すでに評価を見ている。

本質的な評価が存在するとすれば、それは常に「今ここ」にしか生起しない。
対象と主体が同じ時間と場所を共有し、関係が生じている瞬間にのみ、それは成立する。
過去の評価は記録であり、未来の評価は予測である。
評価そのものは、現在にしか存在しない。

にもかかわらず、人は本質的な評価を避ける。
自分という評価軸が流動的であり、不確かであるからだ。
対象を評価することは、自らの判断基準を露出させることに等しい。

そこで人は評価を外部化する。
自分自身の評価、そして他者への評価を、社会的評価に委ねる。
判断を外部に退避させることで、主体は安定する。
この安定は機能するが、形成ではない。

外部化された評価軸によって構築された自己は、説明可能で共有可能である。
だが、今ここで判断する主体としては存在しない。

そして、人はそれを自己と呼ぶ。
その呼称が疑われることはほとんどない。

不安定であること。
不確かであること。
説明できないこと。
共有できないこと。
他者にとって無価値であること。

それらは排除される性質であり、同時に、自己が存在する条件でもある。

「それにはどのような意味があるのか」と人は問う。

だが、この問いはすでに外部を向いている。
意味とは説明であり、共有であり、正当化である。
それは常に、他者に差し出される。

ならば、問われているのは意味の有無ではない。
意味が必要か否かである。

外部に依存しない根源的な自己の内部で、意味は発生しない。
そこにあるのは衝動であり、志向であり、選択である。
それらは理由を持たず、正当化を要求しない。

人は意味があるから選ぶのではない。
選んでしまうという事実が、先にある。

意味は、後から置かれる。
多くの場合、それは保護のために置かれる。

意味に依存しないということは、理由なしに選択が起きることを許容するということだ。

意味が不要であるかどうかは、判断できない。
ただ、意味がなくとも、選択は生じる。

その事実だけが残る。

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