愛の行方

不完全で未熟なものを愛する方法は何だろう。

親から見た子はとても未熟で、不完全な存在だ。そして最大の愛情の対象になる。

親が子に抱く愛情こそ、不完全さを愛する究極の例だろう。

未熟であるということは、大きな可能性である。不完全であるということは、完成されていない美しさである。そこには刹那的な尊さと輝きがある。

僕は組織を嫌悪している。なぜ嫌いなのか考えると、それは組織が持つ不完全さをもって説明できると思う。

さも完全であるかのように振る舞い、不完全さはただ僕の視点だけのものだと言い、そしてそのまま硬直したようにも見える組織というものが、僕はとても嫌いだ。

話さず、笑わず、成長もしない子供を見ているようなもの。

しかし、どんなに失望しようと、それを愛すことこそが僕のすべきことなのかもしれないという考えは常に浮かんでくる。カントの言う道徳がそこにあるように思える。

そうすべきかもしれない。非常に高い次元での命令のようなものが、薄っすらと聞こえている。

愛は見返りを求めないという。壁打ちのようであっても、構わないのだと。

この社会に生きる人々にとって、最も困難な使命のひとつだ。誰も自らが望んだわけじゃなかっただろう。それでも愛せと言うのだろうか。今の僕には、とてもできそうにない事に思う。

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