方便

発端は、「方便とは何か?」という問い。
表面上は優しさや配慮の顔をしている方便だが、その本質は、時に欺瞞であり、逃避であり、語る側の責任を巧妙にすり抜ける仕組みでもある。

方便は、今を守るために未来を担保にする。
“言葉の借金”とも言えるような概念である。
それによって壊れなかった何かが、後になって静かに崩れていくこともある。

「方便を正当化する文化には欠陥がある」

そう結論づけた僕は、真実が何かを壊すのだとしたら、それは壊れるべきものなのだと考えた。
欺瞞によって延命されることは、救いではなく、自己の放棄だと感じた。

多くの場合、弱さを誤魔化すために方便が使われる。
それを「相手のため」と言い換えることで、欺瞞や逃避を正当化している。
甘美な誘惑に身をゆだねていく。
その構造は、明らかに毒性を孕んでいる。

だが、このような厳しい倫理観は、万人に通じるものではない。
真実に耐えられない人は確かに存在する。
そして、その崩壊の果てに、自死や精神の崩壊というかたちで“退場”を選ぶ者もいる。

「その死は悪だろうか?」

その問いに明確な答えはない。
死が社会にとって「悪」とされるのは、あくまで社会の存続と秩序のためであり、個人の内的な誠実と尊厳とは必ずしも一致しない。

構造の視点から見れば、自殺は「劣勢個体の淘汰」として処理されてしまう。
本人の意識と関係なく、社会はそれを“貢献”として静かに取り込んでいる。
どれほど冷たく、残酷な現実だろう。

「自己を破壊するという選択すら、予定されているものなのか?」

この問いは、自由意志の根底を揺るがしている。
もし破壊すら脚本の一部なら、自由はどこにあるのだろう。

だが、その問い自体が予定されえない“意識の跳躍”であり、そこにかすかな自由の兆しがあると信じたい自分もいる。

自己の追求の果てには、無意味、無価値、無目的という“無”の空白が待っている。
それでも、「ただ在る」ということの中に、わずかな希望を見出さずにはいられない。

「自己の追求の果てに、社会を始めようとしているのだろうか?」

ふと浮かぶ問い。
道徳が生まれ、規範ができ、再び構造が立ち上がる。
堂々巡りのように見えた。

だが、以前の場所に戻ったようでいて、実は違う高さ、違う深度に到達しているだろう。螺旋のように。

意味を求めて、意味を失い、言葉を信じて、言葉を疑い、問い続ける旅だ。
逸脱や否定の先にあるのは、より深い関係と理解なのかもしれない。

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