無意識の演出と内的体験

‘ボケて (bokete)‘ というサービスは、お題となる画像に対して一言ボケを投稿して楽しむユーザー投稿型サイト / アプリである。

画像とセリフの組み合わせで笑いをとる形式で、投稿されたボケに対して、ユーザーが星をつけたり、ランキングに反映されたりする仕組みがある。SNSで「秀逸なボケて集」というように拡散されることも多い。

これをネタとして使った動画を視聴すると、不思議な現象が起こる。動画の中でそのボケを音読されると、秀逸なはずのボケが、急に寒いものに感じることがあるのだ。

このメカニズムを考えてみる。

頭の中で読むときは、自分のタイミング・声色・ニュアンスで読んでおり、自分にとって完璧な演出をした上で再生している。これに対して他者が音読する場合は、他人の声とタイミングで再生されることによって、自分の脳内での「面白さの再現」との間にズレが生じる。このズレが滑ってる感や寒さを生んでいると考えられる。

頭の中で読むとき、そのボケを読むのが初めてであるにも関わらず、なぜ ‘完璧な演出‘ ができるのだろうか。知らないものを面白く読めるはずがない。矛盾しているように思える。

これは脳が、先読みしているからに他ならない。次を予測し、予測に合わせて感情と演出を同時進行で行っている。そしてその演出は、自分のために最適化されている。それは自分の好みや経験、ツボなどを反映して、無意識のうちに圧倒的なスピードで演出され、再生されている。

意識的な理解とは、言語処理のことだが、これはあくまで脳の一部の働きであって、非言語処理が占める部分が沢山ある。直観や感情、予測、反射や身体反応などは、自分の意識下の `理解` とは別階層のものだ。

また、頭の中で読むだけで、脳はちゃんと音としての処理を行っているようだ。実際には音を聞いていなくても、脳はその音を疑似的に再生している。これは音を聞いて処理するよりも、情報処理のスピードが高速である。

脳は、それほど精密で、無意識のうちにとんでもないことをやってのける。とてつもなくレベルの高い再生装置としての機能を有していることを証明している。

4K、8K、VRやプロジェクターなど、デバイスの技術発展はめざましく、リアリティや没入感のあるコンテンツが次々登場している。しかしこれらのコンテンツがもたらす完成された体験は、受け手の想像力を超えられるものではないのかもしれない。

本などの文字情報は、読者の脳が補完し、演出し、完成させるプロセスを経る必要がある。脳はこのプロセスの中で、映像や音だけでなく感情・空気・匂い・時間の流れすら描写することができる。

外から与えられる体験と自分の中で生成される内的体験は、優劣の問題ではないが、後者の方が圧倒的自由度と深さを持っている。

文章を書く・読むという行為が素晴らしい創作活動だという事を、改めて思う。

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