芸術とは何かを考える人がいるらしい。芸術とは何だろう。
「こんなものが芸術なのか?」と思うような作品があるらしい。
しかし高く評価されていると。ならば芸術なのだろうか?だから芸術なのだろうか?
私は大人になって以降、とにかく芸術というものに嫌悪のようなものがあった。しかし考えてみれば、それは芸術そのものに対する嫌悪ではないことが分かる。
私が嫌悪していたのは、権威の元で扱われる芸術であり、教養と共に語られる芸術であり、財力の誇示のために求められる芸術であり、分かる人には分かるという芸術であり、技法や歴史的背景、あらゆる知識のもとでようやく語ることが許される芸術である。それは、芸術そのものではなく、芸術を取り巻くヒエラルキー構造であった。
私は幼い頃、昆虫や動物、恐竜などの図鑑を好んで眺めていた。
私の父は、画家を志した人であった。私は父に頼んで、恐竜や動物、空想上の龍の絵などを描いてもらい、ファイルに挟んで保管し、毎日のように眺めていた時期がある。
流れるように描かれた線、濃淡、光、何よりもそれらの絵を見ることで、幼い私は確かに、喜びを感じていた。それは私にとっての芸術というものと触れ合う原体験であったと確信している。
喜びを感じていた、と書いたが、正確には違っている。あれは喜怒哀楽で表現できるものではない性質のものだ。もっと非言語的な、情動だった。
私はそれらの絵を、ゼロ距離で”感じとること”が出来ていたのだ。
私は、例えばモネの絵画を見たときに「誰が書いたのかもわからないし、これが何なのかよく分からないけど、風が吹いていて心地よさそうだから好きだ」といった感想を持ちたいのだ。
最近、アレクサに「クラシックを流して」と頼んで、流れてきた曲の一つがとても心に響いた。
曲をもっと集中して聴くために、作業をやめ、目を閉じた。それでもまぶしく感じる部屋のライトすら邪魔に思えるくらいだった。
音楽が流れ、空気を伝って耳に届き、私はそれを感じている。そこに喜怒哀楽のような感情は無い。それだけのことである。ただそれだけのことが、とても素晴らしいことのように感じられ、身を任せられ、世界と私との境界が溶け、満たされたようだった。
その曲が誰の作品かも知らなかった。この無防備さが良かったのかもしれない。
いつでももう一度アクセスできるように、名前だけメモした。ルドヴィコ・エイナウディという作曲者だった。
私にとって芸術とは、そういうものだと理解した。
感じることの自由さと素直さである。分からなくて構わない。感じるために、知ることは絶対条件ではない。
世界と自分との境界がふっと溶けるあの一瞬の充足感。芸術はそれを感じさせるものなのだ。
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