身体のユーザー権限

眠りから覚めると世界が始まる。当たり前のことだが、眠っている間も自分は存在している。

カメラをセットして眠りにつき、いびきをかいたり寝返りを打つ自分を撮影する。覚醒していない自分を見ることができる。カメラ映像の中の彼は無意識の状態であるから、彼の中には、こうして今キーボードを叩いている自分としての意識は存在していない。

それでも彼は呼吸をし、寝返りを打つ。無意識下であっても、酸素を取り込み、ATPを作り、脈を打ち、エネルギーを消費している。

僕は今覚醒しているが、意志によってそれらの活動を止めることはできない。僕にできるのは、体を動かしたり、ものを考えたりすることくらいで、この身体の中で行われている全ての生理現象に対して介入することはできない。これらは禁止されている。

僕の意識には、身体内部の全ての機構に対して、停止や再起動、別のものに書き換えたりといった術はない。

コンピュータには権限の管理という仕組みがある。普段使用するスマートフォンも同じ。私たちが通常使用しているのはユーザー権限であり、スマートフォン内部の全てのファイルやリソースにアクセスすることは禁止されている。

全てにアクセスできる権限のことを root権限 と言う。Androidであれば「root化」、iOSであれば「脱獄」と呼ばれる操作は、このroot権限を使えるようにすることだ。

そもそも、なぜ全ての権限が与えられず制限されているのかと言えば、セキュリティや安定性を担保するためである。root権限とは全てを操作できる鍵であり、根底から何もかもを破壊する自由さえ手にしているからだ。

スマートフォンを意図せず破壊してしまったり、悪意の第三者にコントロールを奪われたりしないよう、通常は一般ユーザーとして使用している。

同様に、「僕」という意識も、この身体というデバイスに対してのroot権限を持っていないことになる。その理由としては、前述のスマートフォンの例と全く同じ事が言えるだろう。セキュリティのためであり安定性のためである。

自殺は自ら生命活動を停止させる行為ではあるが、あくまで外部から刺激を与えて、関節的にそれを停止させているに過ぎず、身体そのものをコントロールしているわけではない。

眠りに就く時や立ち眩みした時、痛みを感じた時など何でも良いが、意識とは無関係な身体の働きを認識した時、意識にとって、この身体が 借り物 でしかないという感覚もある。もし借り物なのだとしたら、意識を別のところに移すというSFも成立するだろうと思う。

ただ、アクセスが禁止されていることは、決して 不自由 ではない。むしろ、だからこそ自由であるという見方ができる。自らの生命活動にとって不可欠なコアの部分を意図せず壊してしまうことがないということは、何を考え行動するにあたっても、安心して良いということだ。

また、生理現象など必要最低限の生命活動は、管理ユーザーがやってくれているのだから、僕の意識はそこにリソースを割く必要がない。

とても美しく作られていて、とても自由だ。

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