はじめに
「幸福とは何か」という問いがあるとき、その前提にはすでに“欠如”という構造がある。
多くの人は、今あるこの瞬間を肯定できず、いつも「なるべき何か」に成ろうとする。
この問いの根底にあるものは、社会由来による自己に生じた認知の歪みのである。
この歪みを仮に「社会導入性認知障害」と呼ぶ。
これは病理としてではなく、存在論的な構造の変化として理解されるべきものである。
社会による認知の侵蝕
人間は社会的存在である。この命題に異を唱える余地はない。人は他者と関係し、制度の中で生きる。
しかし、まさにこの社会性の内面化が、自己の根源的自由とその認知を歪ませる契機となる。
社会は、個に対して価値を定義する。「成功」「貢献」「共感」「承認」といった概念は、幸福の条件として示され、内面化されることによって、無条件の存在肯定は次第に忘却されていく。
社会導入性認知障害とは、この社会的価値の内在化により、自己の存在認知を転覆される状態である。それは病気ではなく、支配である。
根源的自由
社会における自由は、選択肢の多さや発言の権利として語られる。だが、それは制度の中で許された自由に過ぎない。真の自由とは、他者や制度のまなざしを必要とせず、それでもなお自己が自己を肯定できる地点に立つことにある。
この自由は、「在ることの自己承認」としてのみ成立し、成果や証明を必要としない。むしろそれらが存在しない孤独の中でこそ純粋に達成されうる。
「私はここに在る」、これは根源的自由のあらわれである。
孤独という媒介
根源的自由は、孤独であることが不可欠である。他者によって肯定される自己は、常に外部に依存している。よって、他者不在の空間においてのみ、自己由来の肯定が純化される。
孤独とは、寂しさや他者との関係の断絶ではなく、関係から解放された存在の自律状態である。このとき、孤独は耐えるべきものではなく、自由の条件であり、認知の回復地点となる。
社会の構造と幸福の誤配
近代社会は「公共の福祉」を掲げながら、その実、個の存在を“社会的有用性”という価値基準に押し込めることによって統治している。
陰謀ではない。あるのは制度であり、文化であり、慣習である。その無意識性が、構造としての暴力性を強固なものにしている。
幸福は、条件付きのものとして制度的に定義され、それを欲することが“自発的”であるかのように思わされている。これはまさに認知障害である。この欺瞞を暴くには、幸福とは本来「得る」ものではなく、「思い出す」ものだという逆説が必要となる。
個人の在り方
人間としての社会性を維持することは必要である。完全な脱社会や逃避が必要なのではない。
だが意識は、社会から分離することができる。生命体として社会性を完全に失うことは困難だが、意識には、それを演技として俯瞰する場所に立つ自由がある。
これは意識の亡命、あるいは意識という独立国家の宣言である。
おわりに
「社会導入性認知障害」とは、病的な個人の問題ではない。それは、制度的・文化的構造が後天的に与える、存在認知の支配装置である。この障害は、孤独と自由という根源的条件を通じて、克服される。
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