罪人の自覚

自分は罪人である、という自覚を持ったことがあるだろうか。

例えば万引きをすれば、問題行動をSNSにアップして炎上すれば、人を殺めれば、どうだろう。

国には憲法があり法律があり条例がある。違反すれば罪人として罰せられる。これは僕たちがこの国で生きていく上で逆らえないルール。社会が決めた制約を個人が逸脱した時、それが罪だとされる。

往々にして、社会と個人は対立する。社会の利益が常に個人の利益であるとは限らない。集団の存在自体が個人の自由や個別性を制限することは明白だ。

社会が存続するためには、時に個人を否定し、迫害し、死に追いやる必要がある。これは社会や組織というものが持つ宿命のような素質であり、個人視点からすると、まさに「罪」だと映るだろう。

そして、これを是とするならその逆も然りだ。個人もまた社会に対して、常に罪人である。

社会に生きる上で、個人が完全にルールを守ることは不可能だ。これは社会が個人に課す制約が、個人の欲求や本能と対立するという事はもちろん、そのルール自体が常に矛盾を孕むものだからだ。

僕たちは社会的な生き物であり、生まれながらにして社会に組み込まれている。即ち、罪を負わされているのだろう。僕たちが作り上げる社会は個人に制約を課し、僕たち個人はその制約に従いきれず、あるいはそれを打破しようとする。そしていつか、必ず打破しなければならない瞬間がやってくる。

個人が社会による制約を破り、秩序を破壊することは罪とされるが、停滞するものに進化はなく、衰退するのみであるならば、社会もまた破壊を必要としている。

破壊と再構築を繰り返して前進するためには、罪人が必要だ。

社会による制約という罪が罪人を生み、その罪人による破壊もまた罪である。罪人が罪人を討ち、罪人が罪人を裁く。これは社会というものが常に抱える矛盾であり、望む望まないに関わらず、僕たちはその中で生きなければならない。

進化は完成させることではなく、ただ次の形に変わるというプロセスであって、矛盾やジレンマも解消されるものではなく、形を変えて再構成されるもの。

この是非を考える必要は無いのだろう。これは原罪のようなものであり、極めて自然であり、存在そのものを無に帰す他に解放は無い。

むしろ、罪とは相対的なものであり、幻想であると言える。幻想に生きるのは虚しい。善悪論などは無意味だ。無垢な心に従い、自らにとって重要な瞬間を見つめていくことが大切だろうと思う。それが罪になるとしても。

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