僕たちは温泉街の旅館に来ていた。
一通りくつろいだ後帰ろうとするが、旅館の出口が見つからない。というより辿り着けない。まるで迷路のように入り組んだ構造の建物の中で、妙な違和感を持ち始めた。
旅館のスタッフに尋ねるも、皆うっすらと笑みを浮かべており、「そんなに急いで帰ることもないでしょう」というような態度である。それでも僕が強引に帰る意志を伝えると、しぶしぶと道を示した。
外に出た。しかしそこは建物から続くテラスのような場所だった。
スタッフが言う。「どうやら嵐が来ているようです。」
僕たちが旅館にやってきた時とは打って変わって、空はどんよりと灰色に染まり、ごうごうと音を立てて雨が降っていた。
この地の異様な雰囲気を感じていた僕は、たとえ嵐の中だろうと帰ろうとしていたが、突然”彼”が叫び声をあげた。
「助けなきゃ!」
”彼”が見ている先には、嵐の中、崖の淵に”あの人”が立っていた。いや、正確には小さな人影が見えていた。”彼”は”あの人”を助けに行こうとしていた。
しかし、僕にはそれが”あの人”でないことが明らかに分かっていた。幻なのだ。”彼”の強力な想像力か、それとも常世の亡霊か、しかし確かに僕の目にもそれは映っていた。
”彼”は我を失ったように、”あの人”を助けることに囚われていた。”彼”にとってそれは紛れもなく真実なのだろうと思えた。
嵐の音がすべてを掻き消していた。僕は”彼”を抱き寄せ、降りしきる雨の中で動けなくなっていた。助けるべきは”あの人”ではない。それは僕たち自身なのだ。
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