拡張装置

倫理とは、他人のためのものだと信じられている。

人は本質的に、自分の身体・感情・時間にしか直接触れられない。個人にとって他人は、常に間接的であり、情報としてしか存在し得ない。構造的に見れば、他人とは紛れもなく「取るに足らない存在」である。この事実は一見冷酷だが、単に認知の限界を述べているにすぎない。

それでも人は、他人を思いやり、社会を気にかけ、遠くの問題に心を痛めることがある。ここで一般には「利他」や「善意」という言葉が持ち出されるが、注意深く見れば、そのほとんどは自己の拡張として説明できる。

善人は、自己拡張のプロフェッショナルである。
彼らは自分の境界を巧みに広げ、家族や仲間、抽象的な他者や社会までも「自分の一部」として取り込んでいる。そこでは他人の痛みが自分の痛みとして感じられ、行為は自然に発生する。しかしそれは、少なからず自己参照的だ。それは高度な自己同一化である。

一方で、悪人と呼ばれる人がいる。彼らは多くの場合、自己拡張が苦手なだけか、環境的制約によってそれが著しく困難な人々である。貧困、疲弊、トラウマ、余力の欠如、これらは自己拡張のコストを跳ね上げる。しかし、「善くあること」「関心を持つこと」「沈黙しないこと」などの社会的要求は絶えず存在する。

ここで起きているのは、能力差や環境差を、倫理語に翻訳する欺瞞である。
選択の問題として語られている善悪の多くは、実際には「どこまで自己を拡張できるか」という能力評価に過ぎない。そして社会は、その評価を「正義」の名において行っている。

正義は境界を引く。
正義が成立するためには、必ず正しい側とその反対の側を生まざるを得ない。自己拡張が得意な者の正義は、やがて普遍化され、「なぜできないのか」という問いに変わるだろう。この時、正義は救済ではなくなる。

そして問題は、現代社会が自己拡張を無限に要求する点にある。
遠くの他人、抽象的な社会問題、歴史的責任、これらすべてを引き受けることが「倫理的成熟」として求められる。自己は有限である。拡張には必ず破綻点がある。無限の善を要求する社会は、壊れない人間だけを善人と呼び、それ以外を倫理的に劣っていると評価する。

この暴力は見えにくい。
なぜならそれは強制ではなくあたかも自発的なものであるように装い、外から殴るのではなく、内面化された罪悪感によって自分自身を殴らせている。自己拡張に成功した善人が、それを普遍化したとき、その成功例が道徳となり、失敗者は倫理的に裁かれる。

ここで、倫理を否定する必要はない。
必要なのは、倫理の縮小であり、倫理を人間サイズに戻すことである。引き受けられる範囲に限定し、介入できない領域については関与しないという態度を引き受けること、責任を拡張しない代わりに、引き受けた地点からは逃げないことである。

正義は、それが正義であろうとする限り、不正義を生む。
問題は正義そのものではない。正義を無限化し、能力差を無視し、個人破壊を正当化する構造にある。

倫理とは、他人を無限に救うための理想ではない。
それは、自分を壊さずにどこまで世界と関わるか、その境界を自覚的に設計するための技術である。

このことを忘れた正義は、必ず善意の顔をした暴力になる。

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