• 僕という社会

    人間は社会的動物である

    これを言ったのはアリストテレスだ。社会的動物とは、社会を作り、その中で生活を営む動物の事である。

    お前はこの組織の癌だ

    これを最初に言ったのは誰なのかわからないが、医学や社会学に造詣のある、非常に知的な比喩である。

    僕たちの身体は、細胞から成る。受精卵が最初の細胞として生まれ、分裂を繰り返してこの身体を形成した。細胞にはテロメアという、細胞の寿命を表す情報があって、細胞が分裂できる上限を定めているようだ。

    テロメアが無くなると、細胞はそれ以上分裂できない。老化細胞となって居座るか、アポトーシスという細胞の自殺のような仕組みを経て、また再利用される。

    ひとつひとつの細胞にはDNAが含まれていて、他の細胞と連携しながら自分がどんな役割になるかを決定し(分化)、遂行し、問題が起こったり限界が来れば、自ら死ぬ。そのような営み、プロセスを通して、僕という存在を形成している。

    がん細胞は、アポトーシスを回避する。つまり自殺しない。またテロメアを伸ばすことで、不死化する。分化の指令も無視して、本来の役割を遂行しない。

    がん細胞は、社会性を完全に失った存在だが、元々は正常な細胞だったというのが恐ろしく、またどこか悲しい。

    細胞に意識は無いけれど、その振る舞いからはまるで「生き残りたい」と言っているような、強いエゴのようなものを感じる。

    僕の身体は、複数の正常な細胞が作り出した社会のようなものであって、それぞれの細胞が皆自分の役割を理解し、働いている。

    そこにがん細胞という、闇落ちした強力なエゴを持つ存在が現れて、社会の秩序が破壊される。ただ生きたいと願う彼の思いとは裏腹に、多くの場合社会そのものが瓦解してしまう。

    これはまるで、個人vs社会の構図だ。僕個人は、僕個人の時点で、既に社会的な存在だったような不思議な感じさえ覚える。

    自死を選ぶ細胞達もそれを拒絶して暴走するがん細胞も、どちらも僕という社会に生きる者達である。

    がん化の速度は、あまりにも早い。社会はそのスピードに追い付けない。この問題を彼らだけでは処理しきれないだろう。

    逆にこれに対応できる社会というものがあれば、それは非常に大きな受容力を持った社会である。

    何か問題があった時、部下は上司に報告する。プログラムは上位のプログラムに伝える。より上位の存在がそれらを包括している状態、そしてそれが無限に続いているとするなら、無限のその先の存在は、全てを受容していると言えるかもしれない。

    僕という社会において、僕のこの意識は、この社会が生み出した統合された唯一の意志である。僕は意志によって全ての細胞をコントロールすることは出来ないけれど、仮に彼らのことを赦せる存在がいるとしたら、それは僕の意志以外にない。

    仮に僕の身体に問題が発生した時、僕はそれを赦してあげられる可能性を持っていたい。

    そして、僕という個が問題を起こしたとき、それを赦し、受容してくれる存在を意識するためには、大いなる全体意識のようなものが必要だろうと思う。

    僕は無宗教者だけど、人が神を意識し、作り上げる理由が、なんとなく実感として分かるような気がした。

    神というと人によっては違和感を覚えるだろうけど、要するに個を超えた全体意識のことで、多分それは意識的に触れることは出来ないものだと思う。

    ただ、確かなものとしてある自分の”無意識”だったり、遥か過去にまで繋がっている自分の遺伝子のことを考えれば、そのプロセスは自分の意識を超えた大きな流れであることが、事実として認められる。

    その流れの一部であることを自覚すると、自分を赦してくれる存在に少しだけ触れられるような気がする。

  • 罪人の自覚

    自分は罪人である、という自覚を持ったことがあるだろうか。

    例えば万引きをすれば、問題行動をSNSにアップして炎上すれば、人を殺めれば、どうだろう。

    国には憲法があり法律があり条例がある。違反すれば罪人として罰せられる。これは僕たちがこの国で生きていく上で逆らえないルール。社会が決めた制約を個人が逸脱した時、それが罪だとされる。

    往々にして、社会と個人は対立する。社会の利益が常に個人の利益であるとは限らない。集団の存在自体が個人の自由や個別性を制限することは明白だ。

    社会が存続するためには、時に個人を否定し、迫害し、死に追いやる必要がある。これは社会や組織というものが持つ宿命のような素質であり、個人視点からすると、まさに「罪」だと映るだろう。

    そして、これを是とするならその逆も然りだ。個人もまた社会に対して、常に罪人である。

    社会に生きる上で、個人が完全にルールを守ることは不可能だ。これは社会が個人に課す制約が、個人の欲求や本能と対立するという事はもちろん、そのルール自体が常に矛盾を孕むものだからだ。

    僕たちは社会的な生き物であり、生まれながらにして社会に組み込まれている。即ち、罪を負わされているのだろう。僕たちが作り上げる社会は個人に制約を課し、僕たち個人はその制約に従いきれず、あるいはそれを打破しようとする。そしていつか、必ず打破しなければならない瞬間がやってくる。

    個人が社会による制約を破り、秩序を破壊することは罪とされるが、停滞するものに進化はなく、衰退するのみであるならば、社会もまた破壊を必要としている。

    破壊と再構築を繰り返して前進するためには、罪人が必要だ。

    社会による制約という罪が罪人を生み、その罪人による破壊もまた罪である。罪人が罪人を討ち、罪人が罪人を裁く。これは社会というものが常に抱える矛盾であり、望む望まないに関わらず、僕たちはその中で生きなければならない。

    進化は完成させることではなく、ただ次の形に変わるというプロセスであって、矛盾やジレンマも解消されるものではなく、形を変えて再構成されるもの。

    この是非を考える必要は無いのだろう。これは原罪のようなものであり、極めて自然であり、存在そのものを無に帰す他に解放は無い。

    むしろ、罪とは相対的なものであり、幻想であると言える。幻想に生きるのは虚しい。善悪論などは無意味だ。無垢な心に従い、自らにとって重要な瞬間を見つめていくことが大切だろうと思う。それが罪になるとしても。