• 再会

    目の前のコップを指で弾くと音が鳴った。

    部屋の中を照らすライトが空のペットボトルに反射している。ペットボトルの向こう側がぼやけている。

    ライトの光があって、僕はそれらを見ている。光が影を作る。椅子、本、時計、全てに影が出来ている。当然のように。

    手を振る。風を感じる。机に触れる。冷たい。

    目に見える秩序と呼吸。

    僕はそれらを見ているようで、暗黙の内に了解していた。こんなにも心を躍らせるものに囲まれて、それを納得していた。見逃していた。

    生まれたときから、ずっとそこにあったもの。理解したことにして、生きやすさを求め続けていた。

    「それはただのコップだよ」

    「それはただの音、ただの光、ただの空気だよ」

    見逃したというより、受け止めきれなかったんだと思う。そして無感動のラベルをどんどん貼っていった。

    それを剥がすのに、特別なことは必要ない。無数の奇跡が目の前にあった。

    「やっと気づいた?」

    「ずっとそこにいたよ」

    世界とつながった気がした。僕がそれに気づいた事に、世界が一斉に応えた気がした。

    理由というより応答として、涙が流れた。

  • 無意識の演出と内的体験

    ‘ボケて (bokete)‘ というサービスは、お題となる画像に対して一言ボケを投稿して楽しむユーザー投稿型サイト / アプリである。

    画像とセリフの組み合わせで笑いをとる形式で、投稿されたボケに対して、ユーザーが星をつけたり、ランキングに反映されたりする仕組みがある。SNSで「秀逸なボケて集」というように拡散されることも多い。

    これをネタとして使った動画を視聴すると、不思議な現象が起こる。動画の中でそのボケを音読されると、秀逸なはずのボケが、急に寒いものに感じることがあるのだ。

    このメカニズムを考えてみる。

    頭の中で読むときは、自分のタイミング・声色・ニュアンスで読んでおり、自分にとって完璧な演出をした上で再生している。これに対して他者が音読する場合は、他人の声とタイミングで再生されることによって、自分の脳内での「面白さの再現」との間にズレが生じる。このズレが滑ってる感や寒さを生んでいると考えられる。

    頭の中で読むとき、そのボケを読むのが初めてであるにも関わらず、なぜ ‘完璧な演出‘ ができるのだろうか。知らないものを面白く読めるはずがない。矛盾しているように思える。

    これは脳が、先読みしているからに他ならない。次を予測し、予測に合わせて感情と演出を同時進行で行っている。そしてその演出は、自分のために最適化されている。それは自分の好みや経験、ツボなどを反映して、無意識のうちに圧倒的なスピードで演出され、再生されている。

    意識的な理解とは、言語処理のことだが、これはあくまで脳の一部の働きであって、非言語処理が占める部分が沢山ある。直観や感情、予測、反射や身体反応などは、自分の意識下の `理解` とは別階層のものだ。

    また、頭の中で読むだけで、脳はちゃんと音としての処理を行っているようだ。実際には音を聞いていなくても、脳はその音を疑似的に再生している。これは音を聞いて処理するよりも、情報処理のスピードが高速である。

    脳は、それほど精密で、無意識のうちにとんでもないことをやってのける。とてつもなくレベルの高い再生装置としての機能を有していることを証明している。

    4K、8K、VRやプロジェクターなど、デバイスの技術発展はめざましく、リアリティや没入感のあるコンテンツが次々登場している。しかしこれらのコンテンツがもたらす完成された体験は、受け手の想像力を超えられるものではないのかもしれない。

    本などの文字情報は、読者の脳が補完し、演出し、完成させるプロセスを経る必要がある。脳はこのプロセスの中で、映像や音だけでなく感情・空気・匂い・時間の流れすら描写することができる。

    外から与えられる体験と自分の中で生成される内的体験は、優劣の問題ではないが、後者の方が圧倒的自由度と深さを持っている。

    文章を書く・読むという行為が素晴らしい創作活動だという事を、改めて思う。

  • 僕という社会

    人間は社会的動物である

    これを言ったのはアリストテレスだ。社会的動物とは、社会を作り、その中で生活を営む動物の事である。

    お前はこの組織の癌だ

    これを最初に言ったのは誰なのかわからないが、医学や社会学に造詣のある、非常に知的な比喩である。

    僕たちの身体は、細胞から成る。受精卵が最初の細胞として生まれ、分裂を繰り返してこの身体を形成した。細胞にはテロメアという、細胞の寿命を表す情報があって、細胞が分裂できる上限を定めているようだ。

    テロメアが無くなると、細胞はそれ以上分裂できない。老化細胞となって居座るか、アポトーシスという細胞の自殺のような仕組みを経て、また再利用される。

    ひとつひとつの細胞にはDNAが含まれていて、他の細胞と連携しながら自分がどんな役割になるかを決定し(分化)、遂行し、問題が起こったり限界が来れば、自ら死ぬ。そのような営み、プロセスを通して、僕という存在を形成している。

    がん細胞は、アポトーシスを回避する。つまり自殺しない。またテロメアを伸ばすことで、不死化する。分化の指令も無視して、本来の役割を遂行しない。

    がん細胞は、社会性を完全に失った存在だが、元々は正常な細胞だったというのが恐ろしく、またどこか悲しい。

    細胞に意識は無いけれど、その振る舞いからはまるで「生き残りたい」と言っているような、強いエゴのようなものを感じる。

    僕の身体は、複数の正常な細胞が作り出した社会のようなものであって、それぞれの細胞が皆自分の役割を理解し、働いている。

    そこにがん細胞という、闇落ちした強力なエゴを持つ存在が現れて、社会の秩序が破壊される。ただ生きたいと願う彼の思いとは裏腹に、多くの場合社会そのものが瓦解してしまう。

    これはまるで、個人vs社会の構図だ。僕個人は、僕個人の時点で、既に社会的な存在だったような不思議な感じさえ覚える。

    自死を選ぶ細胞達もそれを拒絶して暴走するがん細胞も、どちらも僕という社会に生きる者達である。

    がん化の速度は、あまりにも早い。社会はそのスピードに追い付けない。この問題を彼らだけでは処理しきれないだろう。

    逆にこれに対応できる社会というものがあれば、それは非常に大きな受容力を持った社会である。

    何か問題があった時、部下は上司に報告する。プログラムは上位のプログラムに伝える。より上位の存在がそれらを包括している状態、そしてそれが無限に続いているとするなら、無限のその先の存在は、全てを受容していると言えるかもしれない。

    僕という社会において、僕のこの意識は、この社会が生み出した統合された唯一の意志である。僕は意志によって全ての細胞をコントロールすることは出来ないけれど、仮に彼らのことを赦せる存在がいるとしたら、それは僕の意志以外にない。

    仮に僕の身体に問題が発生した時、僕はそれを赦してあげられる可能性を持っていたい。

    そして、僕という個が問題を起こしたとき、それを赦し、受容してくれる存在を意識するためには、大いなる全体意識のようなものが必要だろうと思う。

    僕は無宗教者だけど、人が神を意識し、作り上げる理由が、なんとなく実感として分かるような気がした。

    神というと人によっては違和感を覚えるだろうけど、要するに個を超えた全体意識のことで、多分それは意識的に触れることは出来ないものだと思う。

    ただ、確かなものとしてある自分の”無意識”だったり、遥か過去にまで繋がっている自分の遺伝子のことを考えれば、そのプロセスは自分の意識を超えた大きな流れであることが、事実として認められる。

    その流れの一部であることを自覚すると、自分を赦してくれる存在に少しだけ触れられるような気がする。

  • 罪人の自覚

    自分は罪人である、という自覚を持ったことがあるだろうか。

    例えば万引きをすれば、問題行動をSNSにアップして炎上すれば、人を殺めれば、どうだろう。

    国には憲法があり法律があり条例がある。違反すれば罪人として罰せられる。これは僕たちがこの国で生きていく上で逆らえないルール。社会が決めた制約を個人が逸脱した時、それが罪だとされる。

    往々にして、社会と個人は対立する。社会の利益が常に個人の利益であるとは限らない。集団の存在自体が個人の自由や個別性を制限することは明白だ。

    社会が存続するためには、時に個人を否定し、迫害し、死に追いやる必要がある。これは社会や組織というものが持つ宿命のような素質であり、個人視点からすると、まさに「罪」だと映るだろう。

    そして、これを是とするならその逆も然りだ。個人もまた社会に対して、常に罪人である。

    社会に生きる上で、個人が完全にルールを守ることは不可能だ。これは社会が個人に課す制約が、個人の欲求や本能と対立するという事はもちろん、そのルール自体が常に矛盾を孕むものだからだ。

    僕たちは社会的な生き物であり、生まれながらにして社会に組み込まれている。即ち、罪を負わされているのだろう。僕たちが作り上げる社会は個人に制約を課し、僕たち個人はその制約に従いきれず、あるいはそれを打破しようとする。そしていつか、必ず打破しなければならない瞬間がやってくる。

    個人が社会による制約を破り、秩序を破壊することは罪とされるが、停滞するものに進化はなく、衰退するのみであるならば、社会もまた破壊を必要としている。

    破壊と再構築を繰り返して前進するためには、罪人が必要だ。

    社会による制約という罪が罪人を生み、その罪人による破壊もまた罪である。罪人が罪人を討ち、罪人が罪人を裁く。これは社会というものが常に抱える矛盾であり、望む望まないに関わらず、僕たちはその中で生きなければならない。

    進化は完成させることではなく、ただ次の形に変わるというプロセスであって、矛盾やジレンマも解消されるものではなく、形を変えて再構成されるもの。

    この是非を考える必要は無いのだろう。これは原罪のようなものであり、極めて自然であり、存在そのものを無に帰す他に解放は無い。

    むしろ、罪とは相対的なものであり、幻想であると言える。幻想に生きるのは虚しい。善悪論などは無意味だ。無垢な心に従い、自らにとって重要な瞬間を見つめていくことが大切だろう。それが一般に罪になるとしてもだ。